綺麗なお姉さんの少女趣味

 非常に心を動かすものがないだろうか。

 

 例えば長めの髪が綺麗な女性。ある程度の年齢ではあろうが、可愛らしさと美しさをその顔に秘めた女性が少女趣味なゴスロリを着ている姿を想像するのである。

 ぬいぐるみでも持って、ベッドの上でお姉さん座りでもしてくれていれば尚良い。

 

 そういう人が私のお姉ちゃんだったなら、どれだけ良かったか…!

 

夏場に上着を羽織る意味

 Tシャツ一枚ではあまりに不安で、どんな時だってもう一枚羽織る。それでようやく一安心。理由は単純明快で、胸を隠すためだ。

 さて、こうなるとまるで思春期の少女が繊細な精神を守るための行動にも見えるので、あらかじめ話しておくと私は男だ。

 いや何だったら普段 の一人称は俺で、私という一人称を使っていたのは営業マンをしていた頃くらいしかない。つまりは性自認が女性であるというわけでもないってことだ。

 

ならば胸を隠す必要がどうしてあるのかと話は移行するが、それが以下となる。

 

 いつ頃からか根付いていた男であることへの嫌悪感は、高校生になり自分である程度の金を手に入れることが出来た時に炸裂した。女性ホルモン薬及び、男性ホルモン抑制剤へ手を出したのである。

 結果は上々。しっかりと男性機能は衰え、体つきは確かに丸みを帯びる。

 その作用のうちの一つで胸も出来た。胸が生え始めた時には、乳腺の発達と発達時の硬化があった。

 ある程度のサイズになった頃には、乳輪も男性らしさが無くなり、硬化も治まっていた。ぽよんぽよんである。

 

以上が私が夏場に上着を羽織る意味である。いや、実にわかりやすい。

 

 ここまでも私の独白で、ここからも私の独白であるが、色味は変わる。私の私による私に対しての考察を行う、非常に内省的な独白だ。

 ここまで読んでくれたならば、まぁ最後まで読んでくれると嬉しい。

 

さて、先ほど、私の性自認が女性では無いと書いたが、それが即ち男性であるということを意味しない。対人的なペルソナこそ男性として振舞っているが、恐らく内面的な性別は無い。無いと思い込んでいる。

 

 さて理由は何だろうか。何時ぞやにも書いた気もするが、一つは父の存在だろう。

 私の血の繋がった父は、女性関係か、金銭関係かその辺りの詳細はわからないが、離婚に至っている。それにより母が苦しんだこと。それは一つの男性性の否定要因のはずだ。

 

 後は何だろう。虐待紛いのことだろうか。恐らくは小学生低学年の頃。大の男が私の顔めがけてパンチを放ってきた。怖くて反射的に避けたところ、壁には穴が開いていた。幾ら薄いと言っても、壁に拳大の穴を開けるパンチを小学生に向けて放つ男の存在は印象に強い。その男の正体は母の彼氏であったのだが、そういう男性的な暴力性を幼い頃に見た事も一つの要因なのだろう。

 

 あぁ、また少し思い出した。同じく小学生の低学年の事だ。恐らくその頃にはもうその男はいなかっただろう。

 確か仲の良かった同級生の女の子を家に連れ帰ったことがある。どういう意図かは自分自身でも覚えてないけれど、多分僕たち二人はませていたのかもしれない。

 それを母に見つかったのが、私の運の尽きだ。烈火のごとく怒り出した母の姿を見て、女の子と仲良くすることはいけないことだと思ったのだろう。そこから女の子と仲良くすることはダメな事だと刷り込まれて、とても長い間積極的にはなれなかった。

 その結果、あまりモテる事も無く、自分の男性としての魅力は無いと考えた事も、あるいは自分の性別否定に繋がったのかもしれない。

 

 一つの人格は様々な事柄と生来の気性が合わさることにより出来上がるが、私は少しばかり失敗してしまったのだろう。様々なコンプレックスを孕む私は、それをペルソナや服で覆い隠しているのだ。

 何も孕む事も無ければ、孕ませる事も出来ないのにね。

 

以上。

操作を調べてないので仕方ないが

新しく書いた記事が、前の日付になっていた。

まぁ困りはしないので良いな。

SNoWさんがーーーー!!

復活されていた!

 

有名な曲としては、地獄少女のオープニングにもなった逆さまの蝶がある、あのSNoWさんである!

 

多分、全部のシングル、アルバム持ってたんじゃないかな(物持ちが悪いので、CD自体は消えてデータのみ)

 

あまりにテンションが上がりすぎて涙腺刺激されかけるよね、これ。

不意に調べてよかった。ついさっきI'm Noを聞いたおかげだ。

 

おかえりなさいませ、SNoWさん。

自由を作る楽しさ

 動画編集と小説を書くこと。これらが今私を楽しませてくれる事柄だ。

 

 何かに縛られることの無い創作作業は自由で、自分という檻から解き放たれるような気がして、心が安らぐものだ。

 

 動画の内容はいわゆるゲームの実況であるが、見て楽しめるよう編集を重ねていくことが楽しい。あくまで自分から離れた存在として投稿するつもりの為、嫌な自分から目を背けられるのだ。

 小説も同様で、自分の考える世界に自分は居ない。私の見てきた現実世界がベースになっていることは間違いないが、自分の居ない理想世界がそこにはある。あるいは登場キャラに自分を投影しているのかもしれない。

 

だから楽しい。

自分でない自分を作ることは楽しいことだ。

 

ふむ、今流行りのインスタ狂いと近いのかもしれないね。

自分には本来存在しないものを、さもあるように映し出すということなのだから。

自分は他人である。

 当時は小学生の低学年か、あるいは保育園か。まぁ、それくらいの時期のことだ。

 私は、私というものが無くて、他人をミルフィーユのように重ねただけのものであることに気付いてしまった。

 

 切っ掛けは、しかし無邪気であった。当時仲が良く、尚且つカッコいいなと憧れていた同級生がいた。仲が良かったり憧れたりすると往々にして起こるのが、同一化である。

 私も例に漏れず、その同級生の口癖を無意識下で真似していたのだが、そのことに気付いた時に私は何となく嬉しかった。仲の良い人と同じ事をするというのは、無条件に嬉しいものだろう。

 そこで終われば良かったのに、どうしてか私は気付いてしまったのである。自分が誰かの真似事を重ねただけの存在である事を。

 

 口癖もそう。同級生の真似だ。

 考え方もそう、同級生や親の真似で。

 突き詰めれば言葉だって同じだ。親の使う言葉を私も使っているだけで。

 

私を私たらしめるものが、私の中に無いんだ。  

 

今でこそそんなことどうでもいいと切り捨てられているが、とにかく当時は衝撃的で何より悲しかった。私の自己憐憫の強さや、自信のなさはこの出来事に根幹を置いていると、この記事を書いてようやく気付くことができた。

 

 

ブログを書き、自分を見つめていくたびに、精神の安定を欠いていっているようにも思うが、書くことが無くなるまでは辞められんな。

 不安定で死にたくなる時だけ自分を感じられるんだ。

 

大丈夫だろう。全然ファッションキチガイの範疇に収まってるはず。

太陽に背を向ける向日葵

消防署の前に植えられていた二輪の向日葵を、私は嘲笑った。向日葵ならば太陽を見つめるのが道理なのに、その二輪は共に太陽に背を向けていたから。

 

 つまらないと断じて、視線から逸らしてきた。

それは人間関係だとか、社会的な地位だとか、趣味の合わない流行だとか、挙げればキリがないほどに。

 それは総じて社会的に良いものとされるもので、私はそういうものよりもむしろ反社会的なことに心惹かれてきた。

 まだ人に言えるものならアニメ・ゲームオタク。リアルで言いにくいものであれば、ドラッグ。(違法なものは服用してません)

 犯罪や暴力的なことは嫌うが、どこか破滅的なことに惹きつけられる。ここで記すには長くなるので割愛するが、私は自分の未来を殺そうとしたこともある。

 

 そう、私が太陽に背を向けた向日葵を嘲笑っているのは、つまるところ自分を嘲笑っていたようだ。世の中で輝くあらゆることが眩しくて、目を逸らした。そして私は特別なんだと、真っ暗な空想だけを見てきた。

 

 奇妙な話、あの二輪の向日葵は私と彼女がモチーフであると感じたのである。