苦しいという文字に暑い、という読み方を持たせるべきである

本日は一体何度あるのだろうか。強い日差しと、高い湿度。暑いし苦しいし、何だったら意味合いが変わりそうだが暑苦しいと言っても良いだろう。吸い込む空気は熱を帯び、今や苛立ちさえ覚えるこの暑さ。

 

私はこう思った。苦しいという文字に、暑いという読み方を持たせるべきだと。

 

脳みそごと茹で上げられて、真っ当な思考回路が組めていないのではないかと思われても仕方がないが、今から記すことをとにかく読んでくれ。無駄なことこの上ない時間を過ごすことができるはずだ。

 

誰もが

暑い=苦しい

の等式は持っていて、納得はしてくれるということを前提として話す。

 

そして現代の言葉において、苦しいという文字には暑いという意味は持ち合わせていない。私は苦しいに、暑いという読み方を持たせることが実のところ重要なのではないかと考えるのだ。

それが何故かというと、人間は他者の考えることがわからないからである。

他人の考えることがわからないということは、どれほど暑かろうとも、もしかしたら他人は暑いと感じていないのでは、と考える余地が出来るわけである。考える余地があるということは、自分さえ我慢すれば世界は平和であると、目に見えない誰かに忖度して(流行語使うやーつ)大きな対策を打たないわけである。

 

だから未だに暑さというのは人類の大敵となっていないわけで、そこに一石を投じるのが上に記した

苦しいという文字に暑いという読み方を付け加えることである。

 

そうすることにより、今は概念的である

暑い=苦しい

という等式は、文字という確かな意味を持つこととなる。そして確かな意味を持った暑さというのは、誰しもの目に映る、頑然たる人類の敵として姿を現し、そして人類は力を合わせ大いなる対策を打つことだろう。

 

以上が、のーみそゆでゆでされた男の馬鹿な発想であり、とても無駄な文章である。